2020-12-28

ARTな人々②(安房エリア・乾坤山日本寺)江戸のテーマパークを訪ねて

高雅愚伝禅師と石工大野英令に出会う旅

孤独なコロナの時代、激変する生活様式の中で、旅のスタイルもまた大きく変わろうとしています。
今回は江戸の仏教テーマパークにタイムスリップです。大評判の保田の羅 漢寺を目指す江戸庶民のように旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。一体 一体がどれひとつ同じもののない豊かな表情の羅漢に江戸の人々は心を和 ませ、旅を満喫していたはずです。大野甚五郎英令門下の見事な彫刻群は、時空 を超えてコロナの時代に再び私たちの心を和ませてくれます。安房・三浦エリアは 東京湾を介して古来からアーティスティックな風の吹く場所だったのです。
乾坤山日本寺の本尊 瑠璃光薬師如来 磨崖仏の大仏として日本一の大きさを誇る
#保田は江戸町民の憧れの地

265年続いた江戸時代。天下統一を果たした徳川家康は慶長8(1603)年、江戸に 幕府を開きます。平和な世が訪れ、庶民の暮らし向きもよくなり、江戸では町人文化が発展していきます。文化の中心地京都から伝わる文物では飽き足らなくなり、地本という版本をつくるなど、独自の文化が花開きます。歌舞伎や浮世絵などの格式にとらわれない大衆文化は、その後世界的な評価を得ることとなりました。浮世絵はヨーロッパに渡り、フランスの印象派の成立に大きな影響を果たしました。その影響は絵画の世界に止まらず、葛飾北斎の大胆極まりない浪の情景に憧れて、ドビュッシーは『交響詩海』を完成させ、カミーユ・クローデルは『波』の彫刻を制作したと言われています。現代の「アニメ文化」にも通じる浮世絵の系譜が、鳥獣戯画以降、この安房郡鋸南町保田からも発信されていました。切手の図案でも有名な肉筆浮世絵の「見返り美人図」を描いた菱川師宣の生誕地は、安房・三浦エリア 屈指の絶景スポットです。鋸山の南斜面は花が咲き乱れ、東京湾を挟んだ西側は優美な富士山が眺められるアーティスティックなロケーションに菱川師宣は育ちました。寛永7(1630)年頃、縫箔刺繍の職人吉左衛門の4番目の子、長男(7人兄弟) として生まれ、父の元でデザインや色彩感覚を学び、絵師として一人前になっていった師宣、地本挿絵に、最初に名を残す絵師となった菱川師宣は、肉筆浮世絵制作の一方で、遊里と芝居町の江戸風俗などを描くイラストレーターとなり、一世を風靡したのです。師宣から始まった浮世絵は、その後も多くの才能を生み出し、世界に影響を及ぼす芸術文化に成長したのです。
表参道から仁王門を望む。いざ乾坤の道へ
#修験道の聖地から仏教テーマパークへ

聖武天皇(701~756)の詔勅と光明皇后(701~760)の令旨に基づいて、皇后の 感得された東方薬師如来を拝祀する「日の本の寺」として行基(668~749)に命 じて建てられた関東最古の勅願所が日本寺です。天皇と皇后は仏教に深く帰依し、奈良の都に「悲田院」や「施薬院」、「浴室」を設けて貧しい庶民の生活を支えていました。そんなある日、浴室に皮膚のただれた重症患者が運ばれてきました。ウミで汚れたその身体を皇后が治療するとみるみる回復し、自分は薬師如来だと伝え、東方へ旅立ったのだそうです。薬師如来をを探し、行基がたどり着いたのが鋸山の麓の現在の寺畑の地だったそうです。神亀2(725)年6月8日に聖武天皇はここに法相宗の寺として日本寺を開創したのです。開山当時、観音堂は岩殿山、薬師堂は現在の観音堂あたりにあり、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模で、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫した修験の山になりました。良弁僧正(689~773)は木彫りの大黒尊天を彫られ、弘法大師(空海・774~ 835)は100日間護摩を焚かれ石像の大黒尊天を彫られました。仁王門の金剛力士 像は慈覚大師(円仁・794~864)の作と伝えられています。また、本尊薬師瑠璃光如来は戦傷を癒すと言われ、石橋山の戦いに敗れ房州に逃れ 再起を図った源頼朝(1147~1199)は武運を祈願して、境内に自ら蘇鉄を手植えしたのだそうです。鎌倉幕府を開くとすぐに日本寺の全山修工に力を尽くし、養和 元年(1181年) 薬師本殿を再建しました。その後、鎌倉幕府後期から南北朝時代の 戦火により再び荒廃しますが、足利尊氏(1305~1358)により再び復興されます。尊氏は国家泰平と万民安寧を祈願し、奥の院無漏窟に参籠した事が通天窟前の 石碑「房州鋸山日本寺碑」に刻まれています。寺は鋸山の奇岩洞窟を利用した修験の山として山伏の修行の場でもありました。慈 覚大師が彫ったとされる金剛力士像を配した山門、心字池を配し、源頼朝の寄進した薬師堂が山の中腹に整備され、正保4(1647)年三芳延命寺末寺として曹洞宗に 改宗し山号を大福山と名乗るまで、天台宗、真言宗と改宗し、富浦正善院配下で里 見氏の庇護を受ける修験寺として、修験者の聖地になっていました。日本寺が現在 の山腹に移転するのは、明和8(1771)年。42歳で日本寺住持となった南房総市本織出身で日本寺曹洞宗9世の高雅愚伝(1729~1812)の発案とされています。赴任してすぐ、賑わう保田の街中で禅の修行は叶わないと本堂を薬師本殿・医王殿のある広場に移そうかと高雅愚伝は考えます。さらに鋸山の頂上に立った高雅愚伝はこ こに乾坤の道を作ろうと閃いたたのではないでしょうか。山号にもなっている乾坤の道(天と地)、聖者への道(羅漢道)をこの山で表わせたらと考えたのです。
#大野英令の彫刻が導く天国への道

江戸から木更津への定期航路が就航し、南房総観光は江戸町民の憧れになりまし た。「人気イラストレーターの生誕地」や「元名の水仙」で有名な保田を訪ねる 人々も増えていきます。江戸の五百羅漢が大評判であることを知った高雅愚伝は、 鋸山を俗世と天界を結ぶ仏教のテーマパークとして生かそうと新たな羅漢寺建設プロジェクトに着手したのです。江戸の商人などのスポンサーも付いて、上総国桜井 の石工、大野甚五郎英令(1750~1798)に羅漢像建立を依頼し、安永9(1780)年に羅漢像建立を発願し、20年の歳月をかけて門弟27名とともに千五百体の羅漢像と百体の観音像を彫り上げたのだそうです。その後の日本寺は浮世絵にも著され、江戸の観光ブームで一躍人気のテーマパークに成長して行きました。さらに長谷川馬光(1685~1751)、武田石翁(1779~1858)や小林一茶(1763~1828)ら文人墨客も訪れて作品を残し、近年では夏目漱石や正岡子規が訪れ、ミュージアムとしての日本寺の礎が誕生しました。
#表参道から境内へのプロローグ

金谷側から明鐘岬のトンネルを保田方向に抜けた国道127号沿い左側に「羅漢道 日本寺」の石碑があります。寛政11(1798)年の資料にも残るこの石柱が日本寺表参道の入口です。表参道に入りほどなく左側に仁王門が見える階段が現れます。元禄7(1694)年に再建された仁王門。眼光鋭い仁王像は慈覚大師の作と伝えられ、俗世の汚れを洗い流す聖地への入口になります。扁額「乾坤山」は、韓国の王族、李朝末期の摂政大院君の孫にあたる李埈鎔の書。明治35(1902)年、館山の北条 町に滞在中、当時の住職代理の祖苗和尚が依頼したものです。仁王門脇には、三猿 をレリーフにした板碑形の庚申塔が現れます。江戸の庚申信仰の流行を物語るレリーフです。さらに仁王門をくぐると観音堂です。元禄13(1700)年に建立され、 安房国札観音霊場の第8番の札所で慈覚大師作の十一面観世音が本尊です。傍には行基手植えの椎木があります。そこからさらに階段を行くと武田石翁作の十二神将の一体が安置され、草書体の心の字を表す心字池です。さらに登ると現在は茶処として利用されている呑海楼から左手に境内が現れます。昭和14(1939)年の失火 による火災で焼失した本堂と薬師本殿があった場所です。薬師本殿・医王殿は平成19(2007)年に再建され、乾坤稲荷、大黒様を祭る大黒堂などもここにあります。再建中の本堂に向かって左手階段上には通天窟。通天窟は日本寺中興の祖、高雅愚伝の墓です。
瑠璃光広場から南を望む
#仏教の教えを体験で学ぶオフィシャルルート

通天窟から先は、仏教を学びながら天界に至る道です。千五百羅漢の表情の喜怒哀楽の豊かさに、自分自身を重ね合わせて、悟りへの道を体感して学ぶ旅の始まりで す。 通天窟から本堂を右手に見て左の階段を上がります。水仙羅漢、内田翁顕彰碑、琵琶弦塚の碑が配された道を行くと右手に小林一茶の句碑と大仏広場への十字路です。聖者になるにはさらに階段を上がります。弘法大師も籠る護摩(ごま)窟の羅漢が迎えてくれます。護摩とは、仏の知慧をもって心の迷いを焚くことです。さらにその先には不動明王がいらっしゃる不動滝です。天台石橋を渡ると仏教伝来に献身した聖徳太子が待っています。さらにその先には維摩(ゆいま)窟の羅漢です。 維摩は古代インド毘舎離城の長者で、学識にすぐれた在家信者だった人物です。在家でも優れた羅漢がここに集まっているのでしょう。あなたに似た羅漢が見つかり ましたか?その先にT字路の薛蘿(べきら)洞です。薛蘿とは、ツタとカズラの密集した所だからだそうです。左手に奥の院の無漏(むろう)窟です。無漏とは煩悩 を断滅した状態で、お釈迦様と文殊菩薩、普賢菩薩の釈迦三尊像と釈迦の十大弟子が羅漢を見守っていらっしゃいます。T字路に戻り右に日牌堂の羅漢が迎えてくれます。最後に大スポンサーだった大口屋平兵衞の寄進した宝筐印塔がそびえ、石工 大野英令の偉業を称える墓となります。その先は百躰観音です。右に入ると汗かき不動様です。汗をかく不動明王様も見どころですが、坂東・秩父・四国の観音巡礼がここ一箇所で済む百躰観音は、ありがたいスポットです。いよいよ天国の門である通天閣をくぐります。西国観音の脇を抜けると、山頂の瑠璃光広場に到着です。 東京湾を見渡す絶景スポット「地獄のぞき」はこの広場の西端にあります。建設当時は、西側の山に繋がっていていて高雅愚伝の計画にはなかった場所です。今度は 地獄のぞき側の階段を降りましょう。降りて日本寺北口に向かうと海上交通の安全 や世界平和を願う33mの百尺観音が待っています。日本寺西口に戻り、上れば十州 一覧台、下りれば大仏広場への十字路です。最後は本尊の薬師瑠璃光如来へのお参りです。光明皇后が救った如来が坐して私たちを見守っています。これが高雅愚伝の意図したオフィシャルルートです。

#奇岩霊場の仏教ミュージアムへ
 
江戸後期から始まる廃仏毀釈で寺は荒れ、さらに昭和14(1936)年の失火、昭和 16(1940)年の太平洋戦争と時代に翻弄され、寺はどんどん庶民の信仰から離れ ていくことに。しかし、昭和41(1966)年に百尺観音を完成させ、昭和44 (1969)年、風雨で傷んだ本尊(薬師瑠璃光如来)を磨崖仏としては日本最大の大 仏として修復し再興、いよいよ令和7(2025)年、開創から1300年を迎え、本堂
のお披露目などが計画されています。唯一無二の奇岩洞窟の霊場日本寺が仏教ミュ ージアムとして世界の脚光を浴び、歴史的な再評価が為されようとしています。 (文・総野文哉) 

 

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