2020-10-20

羅漢と石切の山 鋸山の歴史

「くにへだて 時が織りなす おもてうら」 鋸山山人

保田の羅漢寺として、江戸後期の旅ブーム、参拝ブームに乗った高雅愚伝の発想は、一躍鋸山を関東屈指の観光地に押し上げました。金谷側では、本格的に産業として石材産業が始まりました。房州石は、加工しやすい凝灰岩で80kgの規格で切り出され、主に江戸や横浜などの建築資材に使われるようになりました。切り出された石は、3本1セット(240kg)にされ、山の上からねこぐるまという台車に乗せられ麓から船で運ばれたそうです。石を切るのは男性、運ぶのは女性の仕事とされ、金谷側に残る急峻な車力道を女性が駆け下りる風景があったのだそうです。江戸の後期、黒船来航に伴う砲台の建設やそれ以降に進んだ西欧化に伴う石材業の隆盛にコンクリートにとって替わるまでの間、金谷側はにぎわったのだとか。

文じいの鋸山逍遥 005「鋸山の歴史」

 

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です